私のブログは今でこそ、あのような文体ですが、ファンブログを始めた頃は、多くのブログのように「ステキ」とか「キャー」とか書いていました。

さすがにコンテストで1位になった以降は、そういう記事は少なくなりましたが、レビュー記事も今の文体とはずいぶん違うものでした。

 

 

ブログを書き始めて一番怖いと感じたのは、自分の書いたものが一瞬で拡散されていくことでした。

ちょっと間違った情報などを書くと批判コメントがすぐ来るのです。

そうなると訂正の文章を出さなければ、どんどん拡散されてしまいます。

 

「一刻を争う」

 

これが私がネットで最初に学習したことでした。

ネットの拡散力は半端のないものです。

訂正しようかどうしようかと迷っている間にも、どんどん記事は拡散され、自分の思いもよらぬ方向へと誤解されて行きます。

一番困惑したことは、全く見ず知らずの人が、勝手に私の記事の批判を自分のブログに書くことでした。

疑問があれば、直接、こちらにコンタクトを下さればいいものを、文章の一部を勝手に解釈し、類推して批判されるということなどはしょっちゅう経験しました。

 

匿名というのは「人間性を変える」ものだと感じたのも、ネットでの経験からです。

今でこそ、ネットでの誹謗中傷は刑罰の対象になりますが、私がブログを書き始めた10年前は野放しでした。

きっとこの人にも家庭があるだろう、誰がしかの母親だろう、と思うような人が、とても普通では口に出来ないような酷い言葉を平気で投げつけてくる。

顔を出し、名前を出してなら、とても言えないような汚い言葉で罵られる、という経験を数えきれないぐらいしてきました。

ですから、訂正記事やそういう批判に対する反論記事は一刻を争うのと同時に、どうするのかという決断を私に迫りました。

 

今まで、何を決めるのにも、夫に相談してから、夫の返事を聞いてから行っていた私が、自分で決めなければならない局面に何度も立たされました。

そうやって、ブログの世界で「文章を書く」という行為は、私に決断力を持つ人間になることを要求してきたのです。

 

それは「自分の書いたものに責任を持つ」ということを私に教えました。

 

それでも「文章を書く」ことは私にとって楽しい時間でした。

日中の音楽の仕事や家事を終えて、私がブログに向かえるのは、夜の11時以降です。

やっと1人になって、自分の部屋でパソコンに向かう時だけがワクワクする時間でもありました。

 

今日は何を書こう、と思わなくても、パソコンに向かえば自然と言葉が降ってきました。

その言葉を綴っていくのが楽しかったです。

 

そうやってブログを書きながら、いつしか私は誰もが思うように、「小説を書いてみたい」と思うようになりました。

そして、ブログの延長線上のような物語を徒然なるままに書き綴るようになって行きました。

 

でも自分が「作家になればいい」と言われて占いのことはすっかり忘れていたのです。

「文章を書く」のが面白く、その気持ちの延長線上に、「小説」はありました。

 

 

ブログを書き始めて2年目の頃、私に「50になったら自分の人生、生きるべきよ」と話してくれた後輩であって人生の先輩は、私のブログや小説の断片のようなものを読みながら、ある日、こう言ったのです。

 

「松島さん、やっぱり文章を書くなら、きちんと文章のお勉強に行った方がいいんじゃないですか?

音楽をするのに、音楽の先生に習って学校へ行くように、文章もきちんと習った方がいいと思うわよ」

 

彼女にそう言われて、私は、それもそうだと納得し、文章をどこに習いに行くのか、という学校探しを始めました。

その頃、心斎橋には、脚本家の藤本義一氏が作った学校があり、ネットにはその学校の案内がたくさん出ていました。

それでその話を彼女にすると、自分の知人が教えに行っている学校がいい、と言うのです。

その知人というのは、実は近現代詩の巨匠なのですが、文学の世界に全く縁のなかった私は名前を聞いても全く分からず、ただ谷町六丁目に「大阪文学学校」と言って、50年以上の歴史を持つ学校で、直木賞作家の田辺聖子や芥川賞受賞の弦月が出ており、多くの作家を排出しているということを教えられたのでした。

 

それが「大阪文学学校」との出会いでした。