S女史に徹底的に指導される毎日が続きました。

 

それまで何を決めるのも何をするのも、夫に聞いてから、夫の意見に従っていれば安心という主婦だった私は、先ず、ブログを書くことで、自分で瞬時に判断しなければならない状況になり、さらに文学学校へ行くことで、自分の意見を求められる、という環境に入ったのです。

自分というものをしっかりと持っていなければ、激しく突っ込まれる世界でした。

曖昧な意見、雰囲気だけでの批評には、容赦無く「なぜ、そう思うのか」「具体的にはどういうことなのか」

と突っ込まれ、「自分の考えを明確に自分の言葉にする」ということを求められる世界でした。

 

作家を目指す人達は、非常に言葉にこだわる人が多く、迂闊に軽い気持ちで言ったこと、書いたことに対して、拘って追求されるということはしょっちゅうだったのです。

 

今でこそ、「私は自分で何も決められない人間だった」「何も行動出来ない人間だった」と言っても誰も信じてくれませんが、本当に私は何も自分で決められない人間だったのです。

 

ちょっと余談になりますが、よく私が「自分では何一つ決められない人間だった」という話をするときのエピソードに「あんパン」の話をします。

音大を卒業した頃の私のエピソードで、如何に自分で何も決められず、母の言いなりになっていたか、という話なのですが、

 

ある日、パン屋さんに行き、あんパンを買うことになりました。

白あんと黒あんがあり、母にどっちにする?と聞かれます。

ところが私は自分がどっちが良いかよくわからないのです。

微かには、心の中で「黒あんが良い」と思っているのですが、それが言えません。

それで、母に「お母さんは、どっちが良いと思う?」と聞きます。

母が「白あんが良いよ」と言えば、私は自分が黒あんと思っていても母のいう通り、白あんにします。

もし、母が「黒あんが良いよ」と言えば、あーよかった、と内心で安心し、黒あんを選びます。

それぐらい自分がどっちが良いのかがわからない。何も考えてない。

母に決めて貰えば良い。そんな人間でした。

唯一、音楽の世界にいる時だけ、自分というものを表現していたのですが、それも先生の言いなりになっていた、という方が正しかったかもしれません。

私の先生はとても面倒見の良い先生で、よく私が決められないと「〇〇しとき!」と決めてくださっていたのを思い出します。

自分というものを明確に持っていなかった私は、音楽の世界では「素直」「従順」ということで非常に目上から可愛がられましたが、それも裏返せば、「自分の意見がない」「先生に依存している」ということになるのだと思います。

 

「あんパン」のエピソードはその頃の私を象徴するエピソードで、それぐらい人の意見に依存して生きていたのです。

これが結婚すれば、その依存対象は母から夫に変わったのです。

今でも根底の中に、意見の強い人、表現力の旺盛な人につい依存しがちな部分があって、それが人間関係を難しくしたりします。

自分の意見を持たないということは、人間関係の距離感を間違えやすくなるという教訓だと思っています。

 

こんな依存的な人間だった私でしたが、文章を書く時だけは違っていました。

ブログで瞬時に判断して文章を書く、ということを求められた私は、文章を書く時だけは、自分で判断できるようになっていました。

 

文章は自分をありのままに表現できるのです。

歌は表現の場所に観客がいて、常にその視線を意識しながら表現することになります。そのために極度な緊張や観客の反応などをリアルに感じながら表現していかなければなりません。

しかし、「文章を書く」というフィールドには、自分以外誰もいないのです。

どんな風に自分を表現しても、リアルに批判されることもなければ、批判的な視線に晒されることもない。

見えない相手を意識することがない世界なのです。

 

そういう世界に入って、私は初めて、自分を誰に遠慮することなく、自由に自分を表現出来たのだと思います。

 

「文章を書く」という行為を通した時だけ、私の人格は別人格になっていました。