音楽ライターでボイスクリエイターの松島耒仁子です。
今日から、私がなぜ、アラカンで人生を変え、音楽業界の中で仕事をするようになったかの話を少しずつ書きたいと思います。
私が「仕事は音楽ライターです」と言うと、大概の人は「ずっと若い頃から書いてこられたんですか?」と聞きます。
でも私が「文章を書く」ことに出会ったのは、ほんの10年前のことで、それまで自分が文章を書くことになるとは夢にも思っていなかったのです。
小さい頃からやってきたのは「音楽」でした。
決して順調に音大に入ったわけではありませんが、とにかく歌うことしか特技がなかった私は、音大の声楽科に入学し、在学中から既にプロのボーカルグループに入り、歌の仕事をしていました。
当時でもなかなか歌の仕事に就ける人は少なかったので、非常に恵まれていたと思います。
ですがその大好きな歌の仕事は、結婚を機に手放すことになってしまいました。
私は結婚後は、主婦業の片手間に歌やピアノを教えるという生活をしていました。
歌の仕事はたまに披露宴やパーティーで歌の依頼があったりしましたが、主にピアノも歌も「教える」という仕事で自分が主体の仕事ではなかったのです。
女性は結婚時にそれまでの仕事のキャリアを捨てる人が多いです。
結婚時に捨てなくても、出産時にはどうしても捨てざるを得ません。
母親業が最優先され、次に妻業。
自分の為の時間などどこにもない、というのが当たり前の生活になります。
ご多聞に漏れず、私もそのような生活を送っていました。
子育てをしながら、近所のこどもや大人にピアノやコーラスを教える毎日を送っていました。
でもそれは自分が好きだから教える仕事をしているというよりは、経済的に教育費や子育ての費用を助けるという意味合いの方がずっと大きかったと思います。
ですから本当に自分の本心の満足に従って仕事していたのかと言えば、決してそうではなかったと言えます。
大好きな歌の仕事が出来ない私は、いつも「音楽以外に自分に出来ることはないか」と探しているような毎日でした。
長年、夫と子供中心の生活をしてきた私の口癖は、「夫に聞いてみます」「夫に相談してみます」
何でも自分で決めずに、夫に決定権を任せていました。
どんな些細なことでも自分で決めずに夫に決定権を預けていました。
その方が楽だったからです。
夫の決定に従っていれば間違いない。
例え結果が上手くいかなくても、それは夫の決定であって、自分で責任を取ることはないのです。
こんな楽なことはありません。
よほどのことがない限り、夫の決定に異論を挟むことはなかったのです。
夫が第一、その次に子供。
それが当時の私の考えで、そうあるべきだと思っていました。
そうやって自分のことは常に後回しにしてきた私は、下の息子が大学に入学しても、その順番と価値観を守っていました。
その頃の私を知るママ友は、「まさに良妻賢母って感じで、ご主人に何でも相談し、ご主人の言うことをよく聞く人」という印象だったと言います。
そんな私には、音大の後輩でありながら、10歳上の友人がいました。
彼女は子育てを終えてから、音大に社会人入学し、卒業後はソプラノ歌手として活躍していました。
彼女がある日、私にこう言ったのです。
「松島さん、息子さんも無事に大学に入学したんだし、もういいんじゃないですか?
女性も50になったら自分の人生、生きるべきよ」